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拙僧は貧しい家に生まれ、幼くして仏法を学んだ。六つの時経を唱えていると、ふと疑問が湧いた。経典があるのに、なぜこの世に仏陀は現れないのか? 師匠は怒り、罰として拙僧を閉じ込めた。しかし一月のあいだ思い悩むほど疑問は深まる…

拙僧は貧しい家に生まれ、幼くして仏法を学んだ。六つの時経を唱えていると、ふと疑問が湧いた。経典があるのに、なぜこの世に仏陀は現れないのか? 師匠は怒り、罰として拙僧を閉じ込めた。しかし一月のあいだ思い悩むほど疑問は深まる一方だった。仏陀が本当にいるのなら、その神通力は本物か? 仏法も果たして人を解脱へ導くのか? 戒・定・慧を修めよと言うが、それで煩悩が断てるのか?納得できない問いが次々と生まれた。だが、真理は問うほどに明らかになる。ならば問わずにいられない。仏法の真理をただ知りたいだけだ。問いを立てなければ真理に近づけない。考え、問い、迷う。それが悟りへの道ではないか。ここに長年の疑問を全てまとめ、仏法三千問として記す。読んだ者が一つでも悟りを得られるなら、それは拙僧の幸い、また読者、すなわち衆生の幸いである。一問で衆生を済度できるなら、長年苦心してこの巻を記したかいもある。よきかな、よきかな。 ...... 仏法にいう「三千大千世界」とは、一千の小世界で一小千世界、それが千集まって一中千世界、さらに千集まって一大千世界──と数えられるゆえの呼称である。しかしこの「三千」は単なる数ではなく、縁起する三種の動きを指す。拙僧の三千問も同様で、千の小さな疑問が一小千問。それが千集まれば一中千問。さらに千倍して一大千問。これを「仏法三千問」と名づけた。 ...... 釈迦牟尼仏、金剛不壊仏、宝光仏、竜尊王仏、精進軍仏、精進喜仏、宝火仏、宝月光仏、現無愚仏、宝月仏、無垢仏、離垢仏、勇施仏、清浄仏、清浄施仏、婆留那仏、水天仏、堅徳仏、旃檀功徳仏、無量掬光仏、光徳仏、無憂徳仏、那羅延仏、功徳華仏、蓮華光遊戯神通仏、財功徳仏、徳念仏、善名称功徳如来、紅炎幢王如来、善遊歩功徳如来、闘戦勝如来、善遊歩如来、周匝荘厳功徳如来、宝華遊歩如来、宝蓮華善住娑羅樹王如来、錠光仏、光遠仏、月光仏、旃檀光仏、善山王仏、須弥天冠仏、須弥等曜仏、月色仏、正念仏、離垢仏、無著仏、竜天仏、夜光仏、安明頂仏、不動地仏、瑠璃妙華仏、瑠璃金色仏、金蔵仏、焔光仏、焔根仏、地動仏、月像仏、日音仏、解脱華仏、荘厳光明仏、海覚神通仏、水光仏、大香仏、離塵垢仏、捨厭意仏、宝焔仏、妙頂仏、勇立仏、功徳持慧仏、蔽日月光仏、日月瑠璃光仏、無上瑠璃光仏、最上首仏、菩提華仏、月明仏、日光仏、華色王仏、水月光仏、除痴暝仏、度蓋行仏、浄信仏、善宿仏、威神仏、法慧仏、鸞音仏、獅子音仏、竜音仏、処世仏──これらが八十八仏と呼ばれる仏たちであるが、ここで疑問が生じる。なぜ、「八十八」なのか? なぜ八十七でも八十九仏でもないのか? 縁起が良いからか? これこそが第一の大千問である。 『長阿含経』はなぜ「長」と呼ぶのか。長があるなら「短」阿含経もあるべきではないか。長くも短くもない阿含経があってもよいのではないか。同様に『大悲咒』にはなぜ「大」がつくのか。「小」悲呪はないのか。大でも小でもない「普通の悲呪」はないのか。「八吉祥」「六吉祥」「八菩薩」「六菩薩」などと呼ぶが、結局どちらなのか。あるいは「四吉祥」「四菩薩」もあるのか、十六まで続くのか。経・律・論などの分類や呼称は誰が決め、誰が解釈したのか。それらの命名に根拠はあるのか、解釈に間違いはないのか。理解しがたし──これが第二の大千問である。 小乗仏教はどれほど「小」なのか、大乗仏教はどれほど「大」なのか。大と小があるならば中乗があってもよいのではないか。小乗が先なのに、なぜ「小」と呼ばれて卑しめられ、遅れて出た大乗が「大」とされるのか。本当に大乗が小乗より優れているのか。小乗のどこが劣るのか。仏は衆生平等を説くのに、なぜ教えを大小や上下に分けるのか。さらには上座部、大众部、十八部派、二十部派、空宗、有宗、華厳、法相、律、禅、密など宗派が林立するが、いったいどれが正統なのか。分からない──これが第三の大千問である。 ...... 三つの大千問のほかに、中千問、小千問、さらに無数の小問がある。旅の途中で事に触れては問いを抱き、人生には限りがあっても問いは尽きない。そこで別巻を起こし、修行中に浮かんだ中千問、小千問、小問を記しておく。余白があるので、ついでにいくつかの問いも記し、読者とともに考え、悟りを分かち合いたい。 ...... 苦諦では人は生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の八苦が説かれる。だが、もし人が生まれて老いることなく死ぬとしたら、生苦はどうなるのか。もし病にかからず死ぬなら病苦はあるか。生まれずに死ぬ者がいて、生苦は成立するか。何も愛さない者には愛別離苦はあるか。誰にも憎まない者に怨憎会苦はあるか。望むものをすべて得ている者に求不得苦はあるか。生まれつき知恵がなくても体は健康な者に五蘊盛苦は及ぶか──などなど。 ...... 仏教には四諦があり、また三諦円融が説かれる。なぜ三つだけを融和するのか。残った一つはどう扱うのか。融和される三諦とはどれか。融和されない諦はなぜ融合できないのか。好みで三つ選んでいいのか。捨てられた一つは切り捨ててよいのか──疑問は尽きない。 ...... (紙の余白が尽きたのか、次第に字が小さくなり、やがて虫めんだのように小さくて読めなくなっている。)

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拙僧は貧しい家に生まれ、幼くして仏法を学んだ。六つの時経を唱えていると、ふと疑問が湧いた。経典があるのに、なぜこの世に仏陀は現れないのか? 師匠は怒り、罰として拙僧を閉じ込めた。し… | Where Winds Meet データベース